| 一生を「ねこふんじゃった」に捧げたルミ子チャンに関する一考察 これは、小生の推測だから本気で聞いてもらっては困るので、 要するに、ポカポカとカーテンの向こう春の陽光が新緑の芝生の緑を鮮やかに照らし モンシロチョウが二匹、絡み合うようにひらひらと舞っている午後.少女だったルミ子ちゃんは、 ピアノの前に座り一生懸命「ネコフンジャッタ」を繰り返し、繰り返し弾いていた。 ふと、本当に、ふと、思いついてしまった。 この曲をピアノではない、世界の国々にある色々な楽器で、演奏したら、と、である。 そして、ルミ子ちゃんの頭の中に、突然、本当に突然、色々な楽器が鳴りだしたのである。 それ以来、世界中を経巡り、色々な楽器を演奏する名人たちと会いそして、あれから何十年、「ねこふんじゃった」の巡礼者となって 毎日、雨の日も風の日も、世界の隅々を目指しているのである 昔の剣客が対戦相手を求めて日本各地や世界各地を旅をしたようにルミ子さんは、「ねこふんじゃった」のメロディーを演奏してくれる侍を求めて 旅をしている、猫が好きなのか、歌が好きなのか、鰹節が好きなのか良く分からないとこもあるが、要するに、すべての日常の仕事や趣味嗜好が 「ねこふんじゃった」に帰趨してしまうのである豚でも、犬でも、象でも、キリンでも、獏でも、虎でも、ライオンでも ましてや、原曲のあのかゆさをもたらす「のみ」でもないのである 「ねこふんじゃった」は、虐待の歌詞で許せないと目くじらを立てていう人もいる この方たちに「たかが猫」なんて言えないのである 愛猫は、擬人化され家族の一員になっているからである 擬人なんて言ったらまた叱られそうである、要するに家族の一員であるから 「ねこふんじゃった」には、幼き日の郷愁がある。 母親に抱かれて聞くことはなかったかも知れないが 教室の隅に置いてあったオルガンであの速いテンポのメロディーを、紅葉のような手指で 教室に夕日の橙色の光が水平に差し込み、小さな声で歌っていた遠い日が世の多くのルミ子さん達の心のひだに楽しかった日々、 悲しかった日々、喜び、苦悩した過去を心の中で美化してしまった幼き日の「ねこふんじゃった」を 思い起こさせてくれるのかも知れない。 何しろ、猫の好きな仲間は優しい人たちの集まりのようである |

