團伊玖磨トップ頁 團伊玖磨 著作 
森繁久彌と聖火との関係は
「パイプのけむり」に書かれている森繁久弥さんのアイディアと團さんの「聖火」無駄論
ID 巻数 項目No 項目タイトル 人名 掲載頁 備 考
19 1 19 聖火 95 ここには、森繁さんの名前はないが、再び聖火に関連する
1972 7 4 再び、聖火 森繁久弥 32 聖火をどのような方法で作るのか
1973 14 31 ジェット機就航 森繁久弥 207
 森繁久濔さんが2009年11月10日(96歳)お亡くなりになった。私は、團伊玖磨先生が2001年5月17日亡くなった護国寺での葬儀時とホテルオークラで行われたしのぶ会でお会いして以来、お目にかかっていないからすでに8年の歳月が流れたことになる。その時は、車椅子でご出席になった。
 森繁さんは、「パイプのけむり」に2度出演される。それも、冬季オリンピックの聖火の話しからである。
 晩年の渋い役柄とは異なり、若い頃は、映画「駅前シリーズ」「社長シリーズ」やでひょうきんな役をこなされていたし、「夫婦善哉」のような駄目な亭主の役柄はコミカルに演じ秀逸だった。この時代(1950年代)、團先生も、映画音楽をたくさん作曲されていた。映画音楽
 團伊玖磨先生は、スポーツは見るものでなく自分がやるものだとおっしゃる。
 そして、スポーツをやっている選手は構わないが「オリンピック・ムード」と言って周りで騒いでいる輩や事象が厭だと仰る。
 オリンピックに便乗して、物を売る、英語を学ぼうという、町を綺麗にしようと云いながら、看板を立て景観を悪くし、覚えるのに何年もかかる英語をオリンピックの時だけ学んでも英語で話せるようになるわけがないとおっしゃる。しかし、どうしても理解できないものに「聖火」があるとここから、先生の独自の論法が展開する。
 そこで先生は、最初に「聖火」の起こりについて
・・・・あまりに変なので、聖火について一寸調べてみると、そもそも聖火の起こりは、第九回オリンピック、アムステルダムの大会の時に、会場に、マラソン門というものを作り、拡声器を付けた塔を建てて、その上で火を燃したのが始りだそうである。其後、聖火が有名になったのは、ヒットラーの時代のベルリン大会の時で、ほじめて継走者によって火種がアテナイ(アテネ)から運ばれて来る聖火リレーが大々的に行なわれた事によるのだそうである。一説によるとヨーロッパを縦断する道路の状態を軍略上調べるために、ヒットラーは聖火リレーというものを発案し、走っていた奴は皆スパイだったのだとも言われるが、これは一寸出来過ぎたお話だ思う。然し、兎に角、火を持ってうろうろするのはこのあたりから始ったことである。(パイプのけむり第1巻より)・・・・・・
 火縄は太陽から取ればいい、大の大人が三千万円もの金を掛けてアテネから日本へそして日本中を駆け巡る。


東京で擦るマッチ1本を節約するために延々と長距離「火」を運ぶと、先生は無駄なことを嘆く。

オリンピックの年、昭和39年のある日、・・・・・ 七年半前の或る晴れた日の朝、僕は、葉山沖に.浮かんだ小さな漁船の上で鯵釣りをしていた。道具を下ろせば次から次に釣れてしまう鯵に愛想を盡かして、僕は漁船の胴の問に引繰り返ると、青空に浮かぶ二、三片の裏白な綿雲が、実に悠々と、実に微々とした速度で形を変えながら北に動いているのを見上げていた。
 その時、胴の問に引繰り返って空を見ている僕にお構い無しに、これが運命と言わんばかりの顔をしながら、一所懸命に次から次に鯵を釣り上げていた船頭が、突然に
「来ただ、来た来た、来ただよう」 と叫んだ。
「大きい奴か、何だ、いなだか」
 と飛び起きた僕に、船頭は、
「そうでねえ」
 と言いながら、陸の方を顎でしゃくった。
 ・・・・・・・・・・・・・・陸地を遠望しながら僕が訊いた。
「聖火だよう。オリソピックのよう」

  海岸沿いを走る聖火を見ながら、先生は、第1巻に書かれた聖火に話が戻り、「聖火」無駄論が展開する。
  
その後何年かして、札幌冬季オリンピック準備委貞会から、開会式のプランを作る会議に出席するようにとの要請があったので、竹田宮様のお伴をして、同じく要請のあった森繁久翻さんと札幌に赴いて、会議に出席した。
 ・・・・・・・・ライターでもマッチでも火は点くし、太陽から採るにしても北海道で採れば無料であるから倹約になるというような事をお話しした。
 皆にやにやして聴いていて、僕も自分の吝嗇に呆れてにやにやしていて、全く気勢が上がらなかった。
 一方森繋さんは、意気天を衝く勢いで、樽前嶽に羊蹄山、大雪山に十勝岳、北海道は素晴らしい火山群が聾える美しい土地です。
 これを忘れてはいけない、このそれぞれの火山の山頂で、噴出する太古以来の火を採って、予め作って置いたコースを、この火を掲げて直滑降で会場へ滑り込む、満場大拍手、良いですよ、これは、などと意気高い。誰かゞ、然し、どういう風にして火口の底の火を採りますかなあ、と言い、森繋さんは、何、あれで採るのですよ、あれ、ほれ、井戸のところにあるでしょう、そうそう釣瓶、あれです、釣瓶で採ると良い、然し、釣瓶は燃えませんかなあ、いや、五輪のマークの入った鉄製の巨大な釣瓶を作るのです。などと、仕掛の事迄説明に及んでいる。 皆にやにやして聴いていて、森繋さんも、だんだんに意気衰え、こりや駄目かな、などと言って着席した。 
(パイプのけむり第7巻より)

 
先生は、森繁さんは愉快な発想をするでしょう。奇想天外というか、思いもつかないことをおっしゃった。
と、笑われていた。何しろ真剣に釣瓶で汲み上げようと、もっとも良いアイディアだと云わんばかりに頑張ったんだけど、皆がにやにやしているばかりで何も言わないものだから、皆さんの頭の中にはどんな容器を使ったとしても燃えるか、溶けてしまうだろうと思われたんでしょうね。

  1982年4月1日、八丈島の初めてのジェット機就航の式典に参加するため朝早くホテルを出て羽田全日空の朝食を摂り、VIP Roomに戻るとすでに関係者が集まっていて、そこに森繁さんが息子さんの泉君を連れてやってきてそこに鈴木俊一東京都知事もやって来て、ボーイング727機に乗った。隣席は、森繁さんだった。
 一番機は、7時50分八丈へ向けて飛び立った。
 僕が初めて山田耕作先生に連れられて八丈島を訪れたのは昭和三十八年の春だった。その頃東京と島を結ぶ飛行機はへロン・デ・ハヴィランドという十二人乗りと十六人乗りの二種の小型機だった。島に仕事場を建てる事になって、島通いを始めた頃、ヘロンはDC3フォッカーF27とフレンドシップに変った。島への空の旅で初めて四十六座席のフレンドシップ機の客席に坐った時は、いよいよ島に文明の光が差し込んだ気がして嬉しかった。フレンドシップ機は昭和四十八年の三月一日で消え、その後九年間は日本製のYS-11機が八丈島空港と羽田空港を結んでいた。フレンドシップ橡の四十六座席に較べてYS-11は六十四座席と大きくはなったのだが、フレンドシップ模の、翼の下に大きな窓のある眺望の良い機体に愛着のあった僕達には、YS-11の何と無く薄暗い印象の機体の評判は必らずしも良くは無かった。
 いよいよ八丈路線のジェット化実現が軌道に乗り始め、数年前からは滑走路延長、新ターミナル・ビルディングの建設も始まり、いよいよ今年、昭和五十七年になってから総べてが完成し、いよいよ、四月一日、今日が、八丈島へのジェット旋客機の初乗り入れなのである。機種はボーイング373、YS-11の約二倍の百二十六人を運ぶ事が出来る。
・・
(パイプのけむり第14巻より)

 森繁節であの独特の調子で歌う「銀座のすずめ」は、私の好きな曲である。すずめに例えた銀座で生きる人々の哀歓をしみじみとした口調で歌う森繁さんも、今は、この世にいない。一つ一つ昭和を築いた人々が亡くなられる悲しいことだが世の常、天国で團先生にお会いになり、釣瓶で聖火をと話されているのだろうか。ご冥福を祈ります。(早崎日出太