團伊玖磨全仕事目次  交叉点目次へ  交叉点 ◆校歌楽譜・歌詞   ◆ショパン
「團伊玖磨先生のお従兄弟さんとご縁があり、親子二代で校歌を」第2信 菅澤理恵子様
ご希望にそうものであればと・・・思います。一点、修正箇所があります。(私が以前に言ったことの相違点です。校長先生ではなく当時の音楽の先生花井吉三郎先生でした。)ショパンの好きだった先生は、・・・・・・
「・・・・・團伊玖磨氏は、ショパンの曲の中の旋律を組み込みかつ、応援歌にも唱える行進曲風な校歌を作って下さったのでした。楽譜もコピーをして添えました」(菅澤理恵子)

1.「高岡高校通史・第6章高等学校になって」〜校歌制定思い出(P.426〜429/「母校回顧」第2集)
2.[高岡高等学校校歌、歌詞、楽譜]
3.[高岡高等学校校歌]には、ショパンの曲が使われています。(堀江英一先生)

 前回、菅澤さんにお手紙を戴いた際にお願いしておいた、校歌の作曲経緯について詳細な資料が送られてきました。私が知りたかった、作詞作曲依頼の過程が学校通史の中に山口先生によって、作詩作曲の詳細について堀江先生が記されていました。
 山口先生が、團先生のお宅を訪ねられピアノでお帰りを見送られたと、お書きになっていますが、これは、私の想像ですが團先生は、何時、お伺いしても、必ず、帰るときには奥様と門外まで出て見送りをして頂きましたから、山口先生にも門外まで送られ、急いで二階に駆け上がり、校歌のピアノ演奏で見送られたことと思います。
 先生の人に対する思いやり、優しさ、そして、2階に駆け上がるユーモア、茶目っ気、ふと、山口先生の文章に潜む、ありし日の先生のお姿を思い出しました。
 葉山での堀口先生と團先生の出会いについては、「パイプのけむり」に度々書いて居られますが、高岡高校についての記録は見つからなかったので貴重な記録です。(早崎日出太)


◆校歌制定の思い出   山口久雄 先生

 戦後、学制改革の波が漸く収まり、昭和二十五年四月一日には高岡中部高等学校は普通、家庭、定時制普通の課程をもつ単独高等学校になりました。
 新制高等学校の内容が改変すると、学校教育の基礎づくりが始まり、教育方針や教育目標、校章、制服がきまり、昭和二十六年には新しい校旗も樹立され、続いて校歌の制定が求められました。
 職員会議で、校歌制定の事は私に一任すると言う事となり、私は国語科の先生方と相して、数名の作詞候補者をしぼりました。佐藤春夫、室生犀星、堀口大学、白鳥省吾、中村眞一郎氏らであったと思います。
 私は夏休みの或る日、この使命を帯びて上京し、先ず有楽町の読売新聞社を訪れました。
かねて、大先輩正力松太郎社長には学校からその旨の依頼がなされていたので、私はすぐに文化部長細川忠雄氏の許に案内されました。部長は白髪の恰幅の良い紳士でした。
 細川部長は私の用意した数名の詩人の名を聞くと、堀口大学先生なら連絡をとり易いとの事で、直ちに電話で内諾をとりつけて下さいました。堀口大学氏は昭和二十五年から読売文学賞の選考委員をやっておられました。私は細川部長の指示通り、堀口先生を訪ねて、葉山一色に向かいました。葉山の小高い丘の上に先生の新居がありました。そこからは、逗子の海が一望でき、涼しい浜風が汗をぬぐうのに大変心地よかった事を覚えています。先生は、浴衣姿でにこやかに私を迎えて下さいました。私は携帯した学校要覧、高岡市勢等を出して、本校は豊かな歴史と美しい自然に包まれた文化的環境である事、また、幾多
の人材を輩出した伝統校である事、そして質実剛健な気風の中に真理を探求する向学心の溢れる校風を持つ学校である事を話しました。
 作曲者については、先生の方から團伊玖磨先生に依頼して下さる事になりました。その時、先生から「曲についての希望がありますか」とのお尋ねに、私は応援歌にも唱えるような行進曲風なものをとお願いしました。
 最後に、先生から、一度学校を訪ねて、生徒に接してみたいから秋には高岡へ行きましょうとの約束を頂いて、先生の家を辞退しました。
 九月になり二学期が始まると、先生は約束通り、高岡へお出になりました。
 来校の朝、私は先生を案内して、旧国道八号線上、永見線が下を通り抜ける地点で立山連峰を遠望しましたが折悪しく雨雲に覆われて立山は見る事ができませんでした。
 学校に着くと、職員、生徒一同、講堂に集まって先生の到着を待ちかねていました。
 先生は、やがて講堂の壇上に登られると、突然「生徒の皆さんの声を開きたいから、何でもよい、唱って欲しい」とおっしゃいました。
 急遽、花井吉三郎先生はタクトをとって「君が代」を斉唱しました。
 先生はジツと耳を傾けておられましたが、その時の生徒の歌声は本当に明るく清純な響きであった事を私は今でも身に沁みて忘れられないのであります。
 生徒たちの憧れや理想を求めて止まぬ至高至純な心から湧き出る歌声が、生徒の声を求めていた先生の琴線に触れ、「あこがれ」とか「理想」と言う詩想が、この時に出来たのではないかと思います。
 青空をめざすあこがれとか、理想は遠く求めよと言う先生の詩想を導いたのは実は生徒自身であったと思います。
 先生はその後、小島威彰先生の案内で万葉遺跡めぐりをなさいましたが、その頃は未だ万葉ラインが出来ておらず、二上山の麓を伏木、雨晴と海岸線を廻り、国泰寺を経てお帰りになりましたが、その時は、すっかり晴れ上がって青天の下、畢生且つ立山連峰を心ゆくぼかり遠望する立山の雄姿を重ね合わせて「若人のあこがれの姿」と映じたのでありましょう。かつて大伴家持が神格化して歌った立山讃歌を堀口先生は「青空めざすあこがれに」とヒューマンリイに立山を賛美されたのであります。
 その夜、先生は古城公園の濠端の旅館「古城」に一泊され、本校先生方と歓談されました。
 その時、部屋に懸かっていた中川一政画伯の二上山の絵をご覧になって、「なるほど乳房のような二上山である」とおっしゃった事が印象的でありました。こんな所にも先生のフランス風なダンディで瀟洒なエロチシズムを感じさせるものがありました。
 また、川崎好治先生はその時の事を回想して、堀口先生は、「私は子供が小さいので格別に健康に注意している。酒も好きだが決して深酒をしない。また、原稿は朝早く起きて書くようにして、決して夜更かしはしないようにしている」と話された事を後日、語って下さいました。
 先生は前年の昭和二十五年には、ライフワークの「ヴュルレーヌの詩集」(新潮社版)の改訂版を上梓されて、一息ついておられるような状態であったので、本校の校歌をも快く引き受けて頂いたのだと思います。
 年を越して、昭和二十七年の一月には先生の許より原稿用紙にべン書きの校歌が圏伊玖磨先生の楽譜と共に長久繁松校長の許へ届きました。その後、花井吉三郎先生の熱心な指導が続き、二月四日校歌制定の披露が行われました。
 その年の春休みだったと思いますが、私は、再び両先生にお礼を申し上ぐべく、上京しました。葉山の掘口先生は相変わらず和服姿で、にこやかに迎えて下さいましたが、私に「一度唱って聞かせてくれ」と所望され、辟易しながらも唱い終り、ホッとした事も懐かしい思い出であります。
 先生とお別れして、その足で團先生のお宅へと向かいました。先生は都心から少し離れた所に住んでおられましたが、門構えのある広いお屋敷であったと思います。二階の先生の部屋に通されると、早速と先生は校歌をピアノでお弾きになりました。お礼を申し上げて玄関を出て門の所に近づいた時、二階からピアノの音が流れてきました。先生が校歌を弾いて私を送って下さっているのでした。
 私もしばらく門の所に立ち止まって聞いていましたが、門を離れる頃は、すっかり夕闇があたりに立ちこめていました。これが校歌制定にまつわる、時には模糊として、時には鮮烈によみがえって来る私の思い出であります。 (『母校回顧』第二集)