| レストラン「シェ モルチェ」コンサート ◆大滝てる子 リサイタル 父母の心を歌い継ぐ(第7回) ◆ ・・・・・懐メロコンサート懐かしき昭和の歌・・・・・ |
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| 歌:大滝てる子/エレクトーン演奏:長谷川幹人 日時:2008年7月30日(水曜日) 開演:3時 場所:レストラン シェ モルチェ(広尾) TEL:03-3993-3311 交通:地下鉄日比谷線、広尾駅下車徒歩1分 料金:¥3,500【全席自由】 |
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| NO | 曲名 | 作詞 | 作曲 | 原曲の歌手 | 備考 |
| あこがれの郵便馬車 | 丘灯至夫 | 古関裕而 | 岡本敦郎 | ||
| 第1部 ◆東京・銀座歌のメドレー | |||||
| 01 | なつかしの歌声(1940) | 西条八十 | 古賀政男 | 藤山一郎 二葉あき子 |
1965歌謡百年 1965.10年忘れにっぽんの歌 1968夏祭りにっぽんの歌 以上の歌謡番組のテーマ曲 |
| 02 | 東京キッド | 藤浦洸 | 万城目正 | 美空ひばり | 1950 |
| 03 | 東京行進曲(1929) | 西条八十 | 中山晋平 | 佐藤千夜子 | 1929 |
| 04 | 銀座カンカン娘 | 佐伯孝夫 | 服部良一 | 高峰秀子 | 1949 |
| 05 | 東京のバスガール | 丘灯至夫 | 上原げんと | 大津美子 | 1957 |
| 06 | 東京の花売り娘 | 佐々詩生 | 上原げんと | 岡晴夫 | 1946 |
| 07 | 夢淡き東京 | サトウハチロー | 古関裕而 | 藤山一郎 | 1947 |
| 08 | 東京の屋根の下 | 佐伯孝夫 | 服部良一 | 灰田勝彦 | 1947 |
| 09 | 東京ブギウギ | 鈴木勝 | 服部良一 | 笠置しず子 | 1948 |
| 10 | 原六朗 | 原六朗 | 美空ひばり | 1952 | |
| 11 | 星影の小徑 | 矢野亮 | 利根一郎 | 小畑実 | 1950 |
| 12 | 支那の夜 | 西条八十 | 竹岡信幸 | 渡辺はま子 | 1940 |
| 13 | 月がとっても青いから | 清水みのる | 陸奥明 | 菅原都々子 | 1955 |
| 休 憩 | |||||
| 第2部 ◆軍歌・愛国歌メドレー | |||||
| 14 | 兵隊さんよありがとう | 橋本喜三郎 | 明本京静 | 松原 操 飯田ふさ江 |
1939 |
| 15 | 父よあなたは強かった | 福田節 | 明本京静 古関裕而 |
霧島 昇 伊藤久男 二葉あき子 |
1939 |
| 16 | 愛馬進軍歌 | 久保井信夫 | 新城正一 | 霧島 昇 | 1939 |
| 17 | 婦人愛国の歌 | 仁科春子 | 竹岡信幸 | 松原 操 二葉あき子 |
1938 |
| 18 | そうだその意気 | 西条八十 | 佐々木すぐる | 霧島 昇 松原 操 |
1941 |
| 19 | 月月火水木金金 | 高橋俊策 | 江口夜詩 | 内田榮一 | 1940 |
| 20 | 大空に祈る | 野村俊夫 | 古賀政男 | 松原 操 三原純子 菊池章子 |
1943 |
| 21 | 索敵行 | 野村俊夫 | 部良一 | 霧島 昇 伊藤久男 楠木繁夫 |
1943 |
| 22 | 勝利の日まで | サトウハチロー | 古賀政男 | 霧島 昇 | 1944 |
| 23 | 若鷲の歌 | 西条八十 | 古関裕而 | 霧島 昇 伊藤久男 |
1943 |
| 24 | サトウハチロー | 古関裕而 | 藤山一郎 | 1948 | |
| 25 | 誰か故郷を想わざる | 西条八十 | 古賀政男 | 霧島昇 | 1940 |
| 26 | サムサンデー・モーニング | 山口国俊 | 万城目正 | 霧島 昇 小川静江 |
1950 |
| A | 旅の夜風 | 西条八十 | 山田耕筰 | 霧島 昇 ミス・コロムビア |
1939 |
| A | 東京音頭 | 西条八十 | 中山晋平 | 1932 | |
| 後援:レストラン「シェ モルチェ」 お問合せ: 03-3442-1851(担当:竹本) |
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| このコンサートの第2部で選ばれたプログラムは、大滝さんご自身か、それとも、戦時体験をされた方が選ばれたのかはお聞きしなかったが、この時代小学生だった私の体験からは、これらの歌を愛唱歌として歌った当事者として、非常に的を得た選曲のように思った。 私たちがその時代覚えた歌の音源は何かというとラジオか、シェラックで出来たSP盤からに他ならないし、この時代国民が一丸となって戦おうと言う意味合いから戦意高揚の歌が矢継ぎ早に発表され流されていたのは当然の社会現象だった。 このような時代に、多くの人々に好んで歌われるのは、明るい表現の上にふつふつと力が湧き出るような歌詞やメロディーが多かった。第一、第二体操(團伊玖磨作曲)のメロディーとともに60年以上経過した今も、これらの歌を唐突に口ずさんでいる自分を発見しているのである。でも、子どもたちが歌詞や旋律を憶えるために何をしたかと問われれば、ラジオやレコードでなく、先生や先輩たちの口から口へと伝わっていたような気がする。 学校の校庭に植えられた南瓜やジャガイモの手入れをしながら、小学生の体力を試すように遠い距離を強制的に歩かされる遠足の日に、天高く空のかなたの透き通るような青空の下でひばりの声と一緒に歌ったりしたのが、これらの歌だった。 でも、小学生の男の子たちは、全て、近い将来兵隊になって国を守るのだという意気に燃えていたから、戦意高揚の歌が子どもたちに軍国主義を植え付けたのかもしれないが、私の歌う軍歌は、童謡や流行歌となんら代わることは無く日常生活に溶け込み、今、思うと疎開先での貧しい生活、特に食事のつましさの方が食欲旺盛な少年期の私には堪えていた。 優しい言葉、歌いやすいメロディ少年たちは声を張り上げ競って軍歌を歌いあったものである。 そして、気がつけば雲霞の様にやってくるB29の黒い数百機の機影が、1万メートル以上に白い帯を残しながら攻撃拠点に向かって散っていった情景を、メシアンの「われ、死者の復活を待ち望む」を指揮するブーレーズに重ね合わせ、あの悲惨な戦争を思い起こし悲しみと恐怖に打ちひしがれたりすることもある。 昔は、国を守る兵隊さんに万感を込めて感謝した。それは、歌だけに留まらず一葉の葉書や、千人針(多くの人々が布に一針づつの糸の玉をつける)で刺繍しお腹に巻くようにと祈りをこめ戦地に送った。 母や兄弟姉妹の祈りも届かず、何百万の若い人たちが散って行った。 大滝さんは、戦争を知らない時代に育った、しかし、歌を聞き入っているリスナーは、ほとんどの人がこの時代を共有した人々である。海外から命からがら逃げて帰った人も。ピカッと閃光が走った長崎や広島に居た人も、この悲惨が遠くなり忘れ去られて居るのに、今も世界のあちこちで争いの火が燻っている事を忘れないで後世に伝えたいのである。。 偉大な父母の歌を歌い継ぐ大滝さんを戦争を起こしてはならないという意味を込めた代弁者としてこのような内容の歌を歌い継いでもらいたいのである。聴衆は、子孫のためにこれらの昭和という二度と体験できない時代を醸成してはならないことも歌とともに多くの若者に語ってほしい。このまま推移するとコンピュータのバーチャルリアリティーの世界から飛び出た若者が戦争を始める危険も認識、抑制していかなければならない。 長谷川さんのエレクトーンも圧巻だった。エレクトーンを聴くといつも、いろいろな道具を持った千手観音のようだと思う。ひとつの楽器が種々な音色を出す。多くの楽器の音も出る。弾き手の音楽的素養、自由な発想が曲想を奥深いものにする。そして、歌い手の邪魔をしないように心がけなければ成らない。 大滝さんが共演者長谷川さんを選んだ真意が、今回、良く理解できた。私は、小さい頃からハモンドオルガンの音色が好きだった。 そんな、昔聴いたハモンドの音が頭の中でエレクトーンと交差し、スロープのついたガラス窓の外に咲く、夏の白い花を見ながら今度チャンスあったら、長谷川さんに「白い花の咲く頃」を演奏していただき、五十年前に泣きながら別れた少女の思い出にふけるのも良いかなと思っていた。 朝、気分を高揚させるためベートーヴェンを聞く、ジャンルで分ければハードボイルド物の映画を見る。 私の心の中にもこの時代学んだ戦いの思想が燻っているのではと反省をしている昨今である。(早崎日出太) |
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