トップ頁へ 目次へ   和子夫人がヒースロー空港で、伊藤さんに助けられた 


故伊藤敏元さん
 昨年、11月27日に伊藤リサさんというお嬢さんから私のメールBOXに次のようなメールが届いた。

◆伊藤リサさんからのメール
 はじめまして。 この度、父の名前をふとインターネットで 検索してみたら、御社サイト「パイプのけむり辞書」で 発見致しました。
 自分はこの先生のことも、作品の事も存じ上げなかったので 父に問い合わせてみたら、もしかするとロンドンの ヒースロー空港での事が書いてあるのかも、と、話していました。
 父の名前は「伊藤敏元」と言い、御社の「人名辞典」 では、
「鎌鼬(かまいたち) いとうとしもと 01 伊藤敏元(BA旅客担当)64」
と記述されているのですが、実は父の名前の読み方が 若干違います。
「敏元」と書いて「としゆき」と読むのです。 (本書でもそう書いてあるかどうかわからないのですが、 團様より以前父の会社宛に送っていただいた本は どうやら父の元には届いていなかったそうなので、 残念ながら確認が出来ないのですが) この名前の書き方は、結構独創的なのでよく 間違われる方が多いです。
 しかし、せっかく御社サイトで「読み仮名」まであるので、 訂正をして頂ければ父も喜ぶと思います。 お忙しいところ大変申し訳ございませんが、もし変更が 可能ならば宜しくお願い致します。(伊藤リサ)

 私は、本を送って差し上げようと調べたが、本屋さんには品切れで購入できなかった。、早速、「暮れてもパイプのけむり第20巻・鎌鼬(62〜72頁)」(アサヒグラフ、89.3.31/4.7/4.14掲載)のコピーを送った。そして、ホーム頁の人名辞典の「いとうとしもと」の項を「いとうとしゆき」に変更した。

・・・・・「老妻を伴って東欧の旅に出た。(中略)・・・僕達はそれぞれ機内用の小手荷物を下げてバスのステップを降りようとした。そういう目的のバスなので、ステップの幅は、普通のバスのものより広く、家内の左側には知らぬ外国の男客が、家内の後ろには僕が居た。家内の身体が急に傾いて、小さな叫び声がして、彼女がステップを踏み外したような気配がした。左の男がむんずと家内の外套の肩の辺りを掴んだのと、僕が家内の外套の背中を掴んだのとほとんど同時だった。家内の身体はそのために転落せずに、転落の途中で一瞬宙ぶらりんとなり、次の瞬間、雨の地面の上に蹲った。左の男が、大丈夫かと屈み込んで呉れた。大丈夫と思う、と言って家内の表情を見ると、少しも大丈夫では無かった。家内は今にも泣き出しそうな顔をして左足の脛を押さえ、押さえている五本の指の間からは血が溢れていた。痛いか、と訊いた。黙って頷いた。ハンカチを渡した。傷を押さえたハンカチは見る見る朱に染まって、その縁からは血が雨に濡れたコンクリートの上に赤い輪を拡げた。変だ、妙に出血が多い。そう思ったけれども、考えている場合では無い。運転手も降りて来たし、その辺りの人も集まって来て、ドクター、ドクターと叫んでいる。血の色を見てOh!と目を覆っている婦人も居る。幸い、ターミナルの入り口には事務所があり、係り員も居て、電話もあった。係り員の緊急電話で、すぐさま車椅子を押して飛行場の警備員が飛んで来た。家内を乗せた車椅子を押して、警備員の後ろに従って特別の通路を通り、出入国検査手続きのゲイトの近くにあったヘルθ・コントロールの小部屋に連れて行かれた。白衣の看護婦のような女が居たので、状況を説明し、消毒だけでもしてくれるよう頼んだけれども、その女は手伝いで、何等の資格が無いので、消毒も手当ても出来ないという返事である。さて、どうしたものか、考えようとして、すぐに思い出した。ロンドンに到着した時、ロンドン・ヒーθロー空港駐在のBAの旅客担当伊藤さんという方から挨拶を受けて名刺を交換したばかりである。ポケットには名刺があった。伊藤敏元、01-562-9453とオフィスの電話番号も書いてある。電話を借りてすぐ彼に連絡した。驚いた彼はすぐに駆け付けて呉れた。救われた気がした。感謝しながら、勝手知ったる彼に従って、今度は空港の裏のような場所のメディカル・センターに行った。・・・・以下省略(「パイプのけむり VOL.20」より)

 
数日間、インターネットや神田の古本屋を探し歩いた。しかし、古本は見つからなかった。その旨を伊藤さんにお知らせした。伊藤さんからは、お父さんにコピー送ったとメールが返ってきた。
 この項で、先生は、かなり冷静にその場の状況を事細かに描かれているが、いつもの文章とは異なり、センテンスが短いのは和子夫人の出血が酷く、どうしたらいいか、医者は、何処に、病院は、旅なれている先生でさえも土地勘も無く気も動転されていたのではないかと推察する。
 伊藤さんの名刺をどのような経緯で入手されたか、そこにどんなドラマが潜んでいたのか、ご両人が天に召されてしまった今となると「パイプのけむり」の著述だけでは、解明することは出来ないが、この事件以前、英国への出入りの際に、空港の何処かで伊藤さんにお会いになって名刺を交換されたのだろうと思うと、先生には、巧まずして未来を読み取るという天賦の才を身つけておられたのではないかと思う。

 

◆伊藤リサさんからのメール
 早速のご返信、ありがとうございます。
はい、父は当時英国航空(British Airways)に勤めており、一時、ロンドンヒースローに派遣され、そこでお会いしたそうです。自分も一緒に英国にはいたのですが、父に関する仕事の事はあまり聞いていなかったので、このご返信内容でBAスタッフとしての父の一面を知り、とても嬉しく思っています。
現在、父と母は高知県へ引越ししているので、早崎様と直接お会いできるのは難しいと思います。しかしながら、先程、父に自分がメールを出したことを伝え、頂いた返信を転送させていただきましたので、メール上でのやり取りは可能だと思います。(父のメールアドレスに関しては、本人の許可を貰っていないので誠に勝手ながら現時点では伏せさせていただきます)
 また、辞書の件に関して、名前編集のご承諾を頂きましてありがとうございます。こちらは早崎様のお手が空いた時に編集していただけば嬉しいと存じます。
 HPの良さは、過去の人の繋がりが解明されることですその通りだと思います。
 自分も、まさか父の名前を検索して見つかるとは思ってもみなかったので(笑)
 大好きな父の事が少しでも御社HPに掲載されていることは娘にとってはとても嬉しいことですね。
 團先生は「ぞうさん」などを作曲された方だったんですね。不勉強で申し訳ございません.
今後、ゆっくりと御社HPに遊びに来させていただきます。
それでは、これからも寒い日が続きますが、お体にお気をつけて頑張ってください。

 
このホームページ「團伊玖磨全仕事」は、團先生がお亡くなりになって3年後、和子夫人がお亡くなりになって4年の歳月が流れていた。その時期に立ち上げた。
 まだまだ、完成はされていないが、その人名辞典の一人のお名前が、伊藤さんのお嬢さんの目に触れた。奇跡としか言いようが無い。満天の星の数ほどのホームページと人名の羅列の中から、一人の空港勤務をしていらしたお父さんに繋がったのである。
 それから、リサさんとのメール交換の日々が続いた。ご両親との生活、四国での季節の移ろい、地域での祭事のことなど、幸せそうな親子の会話などが綴られて、私は、息子の住む徳島の季節と重ね合わせて居た。
 

◆伊藤リサさんからのメール
 返信が遅れて申し訳ございません。そして、ありがとうございました。
 そうですね、きっと父は天国で團先生や早崎様のお母様と色々語り合っていることでしょう。父は最期までイギリスが好きでした。入院する前の明け方、妹と二人でなんだか英語でイギリスの話とかをしていたみたいです。
 早崎様のお母様も永眠されたのですね...私からもご冥福をお祈りさせて頂きます。

 先日、父の姉と弟に、父が「パイプのけむり」に出ていることを告げたら、もの凄くビックリしていました。
 実は、祖父が、そのシリーズのファンだったらしく、生前はよく読んでいた、との事で...だから、父と先生との談義には、きっと祖父も加わっているのでは、と想います。
 本当に、どこで繋がっているかわかりませんね。人生は面白いって再確認をしているこの頃です。
 高知も寒暖が激しく、父が楽しみにしてた前庭の枝垂れ梅が三分咲きで頑張っています。
 関東はもっと寒いと聞き及んでいますので、お体を大切に頑張ってください。

 昨年、暮れから、母の老人ホームへの入居、そして、2月13日の葬儀まで、手続きや法事、納骨とリサさんとのメール交換は、一時期、頓挫していた。
 2月末にお父さんがお亡くなりになったと、メールが伝えていた。
 私の心中で若くして彼岸に赴いた父の事が走馬灯のように頭の中をめぐり、若くして逝ってしまったリサさんのお父さんへの悲しみが如何許りと慮った。
 團先生が、天国から伊藤敏元さんに「パイプのけむり」を届けるように、リサさんと私にサインを送られたのでは無いだろうか。リサさんから私へのバトンタッチでお父さんに「パイプのけむり」の1頁が届けられた。ご生前に間に合った、私は、結果の喜びと同時に深い悲しみに陥っていた。


◆父と「パイプのけむり」の不思議な関係(伊藤リサ)
生きていると、不思議な「縁」と出くわすことがあります。
「生きていると」と書くと如何にも経験を重ねたような人間と思われるかもしれませんが、自分は生まれてからまだ29年しか道を歩いていない、ただのひよっこです。
まあ、自分の事はさておいて、本題に移ります(笑)自分が出会った「縁」は、何気ない事から始まり、知らない世界を紹介し、そして、面白い結果をもたらしてくれた...と言うよりも「面白い結果を教えつつある」が正解なような気がします。何故なら、その「縁」から紡ぎ出た出来事を自分はまだ完結させたくないし、これからもチョクチョクとお付き合いさせて頂きたいと願っているからです。

恥ずかしいことにも、実は自分は「パイプのけむり」にも團伊玖磨先生にもこの「縁」と出会うまで知ることはありませんでした。「童謡」を通して小学生の頃に出会っていたとしてもその作り手のことまでは知る得る事がなかったし、その後もあまり触れる機会がなかったから。だからこそ、この不思議な「縁」がもたらしてくれた繋がりに感謝しつつ、これから、少しずつ團先生の作品と触れ合いたいと思います。

 最後に、HPの貴重なスペースに、父の事を書き残す機会を与えてくださった、早崎様に心からの感謝とお礼を申し上げます。

 初めは、何気ないインターネット上での検索だった。
 「自分の名前をネットで検索したら、出ることがあるのだろうか」
 「それでは自分の家族は?」
 2004年11月のある日、突如と思い立った自分は、検索サイトで自分を含め、家族全員の名前を調べてみることにした。
 そして、サクサクと検索を進めていた最中、父親の名前「伊藤敏元」のみが完全一致で引き当てられた。父の名前は珍しい読み方だし、一体、どんなサイトに掲載されたのかと思ってジャンプしてみたら、早崎様が管理する「パイプのけむり 人名辞書」の中でした。
 父が有名なシリーズの中に登場している事に驚き、当時、まだ元気だった父に問い合わせをしてみたら、確かに彼はロンドンのヒースロー空港に勤めていた間に、先生を「助ける」機会があり、自分でも「LHR,のお助けオジサン!」とメールで教えてくれました。

 團先生と父が出会ったのは、ロンドンのヒースロー空港。
 当時、父は英国航空の日本人駐在員として86年から91年まで派遣されていました。
 その頃の父の仕事は、日本から到着した「お客様」の誘導、質疑応答、チケットの手配から、お勧め観光スポットの紹介まで幅広くやっていたそうです。
 また、著名人がBAを使ってロンドンに来る時は、父が出迎えるよう東京オフィスから指示が届き、その時、父と團先生御夫婦にも出会うことができたみたいです。
 ただ、著名人だろうが、一般人だろうが、父の応対の仕方は一貫しており、團先生だから特別なことをやったと言う事はなく、当時「困っていた」先生達を「助けた」のはごく当たり前の行動で、それが本となって紹介されていた事は、父にとっても嬉しさ半分、恥ずかしいところがかなりあったに違いありません。何故なら、自分がここのサイトで父の名前を発見するまで、父からはそんな事を聞いたこともなく、また、聞き出そうとしても照れてあまり教えてくれなかったから。
 残念なことに、父の名を探した翌年2月10日に父が團先生が居る場所に旅立ってしまったので、先生と出会うことが出来た経緯を詳しく聞くことが出来ず、また、父の元同僚達も知らない為、父と先生の関係を深く知ることが出来ないことが心残りではあります。
 しかし、父は、困っている方を放っておけない性質でしたから、東京オフィスから事前に先生のエスコートを頼まれて居なかったとしても、助けが必要と察すれば、必ず出向いていたと思います。
 日本に帰ってからは、何時でも半袖で「Smily Toshi−san」と慕われていた父。そんな父と有名な團先生が、遠いロンドンで出会っていたのは何とも不思議な縁だと思います。
 更に、父が他界する少し前に、娘である自分がその事を更に不思議な縁で探し当て、ここで書かせてもらっているのももっと不思議な感じではありますが(笑)。

 今はきっと、天国で先生と父は、楽しかったロンドンでの出来事を話し合っていることだと思います。そして、その側には、「パイプのけむり」のファンであった、自分が出会うことがなかった父方の祖父が聞き耳を立てていることに違いない、と思うとやっぱり不思議ですね。不思議な縁とめぐり合えた縁にも再度、感謝!

 2005年2月7日アメリカン・フットボール、「スーパー・ボール」の日、ファンである、お父上、伊藤敏元様は、天から試合を見るために旅立たれたと、お嬢様のリサ様からお便りがありました。悲しいことですが、先生の歴史が一つづつ消えていきます。(早崎日出太)