トップ頁 目次        対談の速記者は、いま、「筑波の友」の編集長     
 「筑波の友」は、1986.06〜2003,03 の期間、つくば市を中心とした住宅問題、自然環境、人、歴史など多くの問題を提起してきた。 
 とくに、新しい都市、研究学園都市として急変する時代を捉え、的確な視点で時代を切り取り、多くの人々に感銘を与えてきた業績は素晴らしい。この本を中心にした人々の輪が果たした役割は多く、今も、廃刊になったことを惜しむ人々は多い。
「筑波の友」最終号+1
 昨年12月14日、美浦村で、偶然、隣に座った竹島茂さんが團さんの専属の速記者だったことに私は驚いた。またも、奇跡が起こったと思った。と、思うのは私だけで、本当は先生が如何に幅広くお仕事をされていたかという裏返しのことなのかも知れない。
 当日、私は甥の家族を連れて、茨城県稲敷郡美浦村中央公民館に元村長の市川紀行氏が主宰する劇団「宙の会」の公演を見に行った。私は、舞台の写真が撮りたかったので前から3列目の中央の席に座った。
 幕が上がる前の村人たちの茨城弁での会話を聞きながら、昔だったら神社の境内にむしろを敷いて村芝居を見ただろうに、今では、設備の整ったホールがどこの市町村にもあって色々な行事や音楽会などがあつて、こうやって遠くに行かなくても舞台が見られるのだと辺りを見回したりしていた。
 そこへ件の竹島さんが、私の隣の席にご夫婦でいらしたのである。
 「どちらから、いらしたのですか」
 私は図々しくもその方に声をかけた・
 「筑波からです」
 「市川さんとお友達ですか」
 「ええ」
 私は、名乗らなくてはとおもむろに名刺を出して手渡した。少しの間、名刺を凝視されていて
 「えっ」
 その方は、何か驚いたようだった。私は、この方はなんで驚いているのだろうと、内心、びくっとしたが、もしかしたら、1985年万博の年、つくば国際音楽祭の事務長をしたときにどこかでお会いした行政関係、教育関係・・・瞬間だったが心の中でそんなことを反芻していた。
 「團さんとどういう関係があるのですか」
 ああ、そうか名刺にホームページ「團伊玖磨全仕事」のアドレスを入れておいたからだ。
 その方は、筑波の竹島だと名乗られた。後で竹島さんの会社を訪問して解ったことだが、万博のあくる年、1986年から月刊誌「筑波の友」を発刊され、2003年2月に廃刊になったとお伺いした。
 「読売から出た、團さんの対談集は、全部私が速記をしました。『毒蛇は急がない(1973)』『さしたる用事はなけれども(1973)』などです」
 言葉すくなに、團さんとの出会い、対談の模様などを訥々として話されていた。
 そうだ、あの2冊は、あまり面白かったので南浦和での演奏会の時、楽屋で先生と速記者竹島さんのことを話したことを思い出していた。
 「僕の対談集は、速記者が凄い人なのよ。読売のあの本の速記は、日本一の速記者が書いてくれたの。」
 その時、私は、遠藤周作さんの抱腹絶倒の対談に話がそれてしまい速記者のことは、そのままに成り、すでに記憶の中にはなかった。何しろ、余りにも面白い対談だったから舞台のほんのちょっとした時間の会話としては、話が尻切れ蜻蛉になることも無理もないし、私も、まったくそのことについては忘却の彼方に置いてきてしまっていた。
 竹島さんからいただいた、最後の「筑波の友(200+1号)」に『竹島さんを囲む会』(2003.3.15,開催)で万博の時の懐かしい顔ぶれが揃い、河本哲三さんや賀田恭弘さんが竹島さんのことを会の挨拶で話されていて、ようやくあのとき先生が話されていた凄い速記者の謎が解けたのである。(早崎日出太)